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テキーラなひとびとJapan Tequila Association

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第6回

高橋裕二郎さん

新日本プロレス所属プロレスラー

新潟生まれの高橋裕二郎選手は、地元新潟でアマチュアレスリングを始め、東京の日体大に進学。体育会系のレスリング部に所属する。成人すると、安い酒を限界まで呑むというスタイルに入り、アルコール耐性は付いたものの、酒を美味い感じた事は一度たりとも無かったという。

2003年に卒業後、1年間高校の保健体育の教師を勤めた1年後、2004年に新日本プロレスに入門。半年間は"新弟子修行"で、禁酒・禁欲・外出禁止の「3禁」。酒の事など考える余裕も全く無く、2004年7月に晴れてデビュー戦を迎える。

デビュー後の酒は、先輩が選んだ酒を文句を言わずにいっぱい呑む、というスタイルで、味について考えた事などは無かったという。新日本プロレスでは海外デビューをしてこそ一人前と考えられ、2009年にメキシコに修行へ出る。

裕二郎選手はメキシコシティの会場「アレナ・メヒコ」を舞台にCMLLに所属し、ルチャ・リブレで活躍。ここで出会ったメキシコ人俳優がテキーラ村から直接買ってきたという一本のテキーラ美味しさに感動。すぐにWal-Martのお酒売場へ走ると、テキーラのあまりの種類の多さに驚いたという。

メキシコのプロレス「ルチャ・リブレ」は、日本よりもっとお祭り感覚が強く、リング上でどんなパフォーマンスをやっても許されるような自由な雰囲気があった。試合後もちろんセルベッサ(ビール)かテキーラだが、メキシコ人の同僚レスラーに勧められて試合前に少しだけ呑むことも。支障は無かったという。

メキシコ人の伝説的ルチャドール(レスラー)「ネグロ・カサス」。彼の家に招かれ、自家製タコスと共に呑んだテキーラは生涯忘れられない感動的な美味しさだった。そしてグアダラハラ市への定期的な遠征中に、グアダラハラにメキシコ人の彼女が出来る。テキーラ村にほど近いグアダラハラ。彼女の手料理と共に呑んだテキーラも最高の味だった。

彼女とお別れし、2010年に日本へ帰国。ここからテキーラの探求が始まる。テキーラ・マエストロのクラスでも積極的に質問されていた。


現在「R指定」「All Night Long」なレスラーとしてファンが多い高橋裕二郎選手。見かけによらず(失礼),非常に深い分析家で繊細。テキーラの事も常にロジカルに考える優れた策略家でもある。彼は3つの理由でテキーラを呑むと名言する。

1. 人前で裸になる仕事。ボディラインをキープする為にテキーラ。
2. 良い酒を呑んで仕事の良いアイディア得る為のテキーラ。
3. 美味しく楽しい酒と、良き楽しき友。これが基本。

現在は試合がある日も無い日もテキーラだ。グアダラハラの彼女と呑んだ「カサドレス」をオンザロックで楽しむ事も。そして、テキーラを飲み始めてから、不思議と大きな怪我もトラブルも無いという。

EXILEのUSAさんがダンス前に少しだけ呑むように、日本でもここぞという試合前に少しだけテキーラを味わってみようか検討中。

今後どんなパフォーマンスで日本のプロレス界を沸かせてくれるのか?テキーラの力もあるって、 "これマジ!"

第5回

宇佐美吉啓さん

EXILE USA

テキーラとエンタテインメント業界は常に近い関係にある。もともとメキシコ・ハリスコ州のローカルな地酒であったテキーラが世界中に知れ渡るようになったのは、テキーラの美味しさももちろんだが、エンタテインメント業界とのコラボレーションが面白かったことも理由の一つだ。

1958年、カリフォルニアのグループ「ザ・チャンプス」が"テキーラ!"という爆発的なヒット曲を世界中に放つ。♪チャラララ・チャッチャッチャ、テキーラ!という曲はヒットから半世紀以上経った今でも誰もが知っているほどのメガヒットだ。この曲のヒットをきっかけにして、テキーラはハリスコ州から全世界へと旅立って行く。その後もイーグルスが「テキーラ・サンライズ」という曲をヒットさせたり、サミー・ヘイガーが自身のテキーラブランド「カボワボ」を発売し成功させ、テキーラマニアでもあるジャスティン・ティンバーレイクが味の調整からボトルデザインまで行った「901」を、ギターの神様サンタナが「カサノブレ」を、最近では俳優のジョージ・クルーニーが「カサミゴス」を発売するなど、俳優やミュージシャンらとテキーラの関係は深く、テキーラの深い味わいと大人の楽しみ方を世界中に広めるのに一役買ってきた。

日本ではどうだろう?灰皿うんぬん・・というようなイメージが強く決して世界レベルとは言えなかったのが、EXILEのUSAさんというスーパースターのテキーラ愛が牽引役となってプレミアムテキーラのイメージを引き上げている。

EXILEのダンサー"USA"こと宇佐美吉啓(うさみ よしひろ)さんから日本テキーラ協会に最初にご連絡いただいたのは2011年初頭のこと。
テキーラが好きでぜひ学びたい!とおっしゃっていただきテキーラソムリエ講習会にご参加いただいた時点で、USAさんは既に多くをご存知でいらっしゃった。
素晴らしい成績で、ブラインドテイスティング試験で銘柄も当てられて修了なされたが、彼が何度か言っていた「テキーラは気分が乗る」という言葉が印象的だった。
なぜなら世界中の多くの一流のエンターテイナー達と全く同じことを言うからだ。テキーラに特別気分が良くなる成分が入っている訳ではないのだが、プレミアムテキーラが持つそのピュアで手作りの良質なアルコール、そしてテキーラが持つ「くじけない」そのラテンスピリッツのイメージこそ、気分が乗ってくる要因ではないだろうか?

テキーラは「型」にはまらないリベラルな酒だ。ダンスという自己表現を日本の第一線で行ってきたUSAさんが受け入れたのもごく自然なことだろう。USAさんは「DANCE EARTH」というプロジェクトを持っていらっしゃり、キューバ、アメリカ、セネガル、フランス、ケニア、ジャマイカ、インドなど世界各地で現地のダンスを取り込んでいる。
テキーラソムリエになってから行かれたメキシコでは、アガベ・アスールの畑の前でダンスをし、蒸留所巡りやテイスティングセッションもされた。 この様子は2013年4月10日発売の「地球で踊ろう! DANCE EARTH 〜Change the World〜」で詳しく見ることができる。また舞台の「DANCE EARTH」も定期的に行っており、USAさんを中心に多くのダンサー達が一糸乱れぬ動き。Crystal KayとNESMITHの唄の掛け合いもソウルフルで、全体を通してダンスの発祥や歴史がわかる構成も面白く、風営法のダンス禁止に対する反骨も!

USAさんの言葉『人種や言語の違いを超えて、分かり合う事が出来るのがダンスの力。その力を最大限に活かして、この共通言語で世界をつないでいくことができたら、こんなに素晴らしくて、楽しい事はないんじゃないかな。』
まさに「テキーラな人」である。

第4回

西海枝毅さん

キリン・ディアジオ株式会社

「ドン・フリオ・エストラーダ・ゴンザレス」
ドン・フリオとして知られ、プレミアムテキーラという概念を造りだしたテキーラ界のカリスマである。
1925年、彼は後にテキーラ造りの名門一家となるゴンザレス家に生まれ苦労して育つ。15歳で父を失い収入が不足したため、テキーラを購入し自分で樽熟成して売り始める。彼のテキーラはまたたく間に評判を呼び、月給9ペソが日給9ペソになったという。

17歳になった1942年、ドン・フリオはアトトニルコ地区にテキーラ蒸留所を興す。彼は蒸留所に「ラ・プリマヴェーラ(春)」と名付け。現在も全く同じ位置にある。
1951年"3つのアガベ"という意味をもったブランド「トレス・マゲイヤス」を販売開始。「3」は安定を意味するラッキーな数字として付けたこのブランド名は、後々テキーラ界で「トレス〜」というブランド名を一般的なものにする。

ラ・ プリマヴェーラを興したハリスコ州アトトニルコ地区は"テキーラ界のナパ・ヴァレー"とも称される非常に恵まれた土壌を持ち、アガベが大きく育つことで豊 かな味と風味を醸すことで知られている。「トレス・マゲイヤス」もその評判通り、非常に豊かな甘みとスムースさを持つテキーラとして確固たる人気を築く。

毎日アガベ畑を歩かなければ気が済まないという仕事熱心で知られるドン・フリオも、23歳で結婚し9人の子供に恵まれたが、1980年代半ばに病に 倒れる。闘病生活の後、ようやく蒸留所に戻ってこれるようになった彼は自ら快気祝のパーティーを開く。この時に振る舞い酒として提供されたのが「ドン・フリオ」だ。
このパーティーを開いた部屋は現在でもそのままの形で残されており、歴代のボトルも展示されている。ボトルは最初から現在のような高さ の低いシェイプだ。これはボトルをテーブルの真ん中に置いた時に向かい側に座る人との視線を遮らないように、というドン・フリオの配慮からで、この形が後 に大流行するのはテキーラ好きならご存知だろう。

ドン・フリオ当初このテキーラを販売するつもりは無かったという。100%アガベ、しかも選び抜かれた大きなアガベ、徹底的に剥かれた皮、抜かれた コゴージョ、丁寧な蒸留と熟成からくるスムースな飲み口は、呑んだ誰もが驚いたであろう。周囲からの熱烈なリクエストに応える形で1987年に「ドンフリ オ」発売開始。プレミアムテキーラ世界の幕開けである。

同じころ、16歳の青年が日本からアメリカのミシガン州へ留学する。西海枝毅さん。 現在ドン・フリオのシニアブランドマネージャーも務める方だ。自ら応募した高校の交換留学での渡米であったが、アメリカに残りたくなりそのままデンバーの大学に進学、そして東ミシガン大学を卒業した。学生時代は、お金もなくバーを併設するレストランで週末だけアルバイトをしながら勉学に勤しんだ。西海枝氏は、サービスがチップ制のアメリカでどのようなサービスを提供すればお客様に喜んでもらえるのか、そしてチップがより多く貰えるのかを身をもって学んだという。このお酒のセレクションにテキーラがあったことは言うまでもないだろう。お酒の世界にも興味を持った西海枝氏は、1993年に日本でキリンビールに入社。2002年に洋酒事業部へ異動する

ここで西海枝氏はテキーラ「オルメカ」に出会う。当時、テキーラで盛り上がっていた京都に目をつけた西海枝氏は「京都テキーラ伝説」を作り上げるのに一役買う。京都テキーラ伝説とは「日本で人口あたりのテキーラ消費が一番多いのは京都の木屋町である」「京都のバーではテキーラの乾杯が当たり前」「京都ではラーメン店・餃子屋さんにまでオルメカがある」などなど、お酒好きの方であれば耳にされた方もおられるだろう。この時に西海枝氏や現地の営業担当、酒屋の担当者との活動が京都でテキーラがここまで広がった理由の一つで、この時に創られたオルメカ像をかたどったテキーラボトルディスプレイ台は今でも伝説の販促品だ。

そして現在、「ドン・フリオ」の担当でもある西海枝氏が、ドン・フリオの素晴らしいブランド・品質に惚れ込んでいるのは当然の流れだろう。
自ら運営総責任者になられているバーテンダーの大会「ディアジオ ワールドクラス」は、カクテルの味のみならず、プレゼンテーション能力や創造力、料理とのペアリングまで求められる世界的な著名コンペティションで、西海枝氏のアメリカ時代の経験も役立っているという。
このワールドクラスの2012年日本最終予選。日本各地から10名のバーテンダーが集まったが、創作カクテルでは10名中5名がドンフリオをベースに素晴らしいカクテルを披露した。

2012年、ドン・フリオ・エストラーダ・ゴンザレス氏は87歳で生涯を閉じた。しかし西海枝氏をはじめとする世界中のコニサーたちが、ドンフリオの伝説と魅力を語り継いでいくのだろう。

第3回

山下雅靖さん

ホセ・クエルボ ブランドアンバサダー

テキーラ最古の蒸留所は、1795年創業の名門クエルボ蒸留所。メキシコから遠く離れた日本でも「ホセ・クエルボ」の名は広く認知され、テキーラといえばまずクエルボのあのスタイリッシュな黄色いラベルを思い浮かべる人も多いだろう。そのクエルボのブランドアンバサダーを長年務め、日本のテキーラ市場を牽引してきたのが山下雅靖さんだ。

山下さんがクエルボのブランドに携わってから今年で9年目になる。就任当初は年間29,000ケースであった販売量が、この9年間でなんと年間70,000ケースにまで伸びた。この倍以上の伸び率はスピリッツ界随一と言われる。こう聞くと、山下さんは筋金入りの仕事人に聞こえるが、実に楽しく、一緒に呑んで面白いイケメン男性である。

山下さんは元々ワインがお好きで、特にブルゴーニュの白、ルイ・ラトゥール社のバタールモンラッシュに特段の思い入れがあったことで広告業界から酒販業界に転身を計り、当時ルイ・ラトゥールを扱っていたレミージャポンの門をたたく。入社後、ワインビジネスに携わる中で、ワインブランドを育てる難しさを痛感、一方、スピリッツは「ブランド」を作るビジネスであり、スピリッツ業界にのめり込んでいったという。この時期、酒販業界全体の再編がはじまり、レミージャポン、マキシアムジャパン、アサヒビールという大きな体制変化の中で、山下さんは変わらずクエルボというブランドを手塩にかけてきた。

山下さんがクエルボのブランドを手がけ始めた2002年、テキーラはカクテルベースに使われるのが主な用途であり、テキーラ市場はシルバーの売上が全体の75%ほどを占めていた。そこにレポサドのショット飲みの楽しさを加えていったのがクエルボだ。図表を見てわかる通り、シルバーの売上はそのままに、レポサドの売上を大きく上積みしている。これは「楽しさ」の提案だと山下さんは言う。音楽、場所、人、この3つが楽しさのキーワードであり、これらを結ぶのがお酒であるという山下さんの考え方は欧米流の上手い演出であるかもしれない。今ではクエルボのレポサドショット飲みは全国的に認知されている。

山下さんはテキーラソムリエの1期生である。常に勉強を怠らない山下さんらしくテキーラソムリエ開始告知と同時に申し込んでこられた。ご本人もおっしゃるように、テキーラソムリエの中でも山下さんはテキーラを「産業」としても見る稀有な存在だ。テキーラは気軽なのに幅広いテイストがあるのも魅力であり、アガベの香りのオリジナリティは他に無いともおっしゃるが、全くその通りである。シルバー、レポサド、そして「1800」の3種とバラエティは魅力的に広い。

テキーラベースのカクテルもどんどん面白くなっているという。確かにバーでマルガリータに出会う機会は増えている。カクテル界でもウォッカやジンからテキーラへの動きも見られる。現在のクエルボの国内販売数は年間7万ケースでホワイトスピリッツ界第3位。第2位はウォッカのスミノフで8万数千ケース、首位はジンのビーフィーターで11万数千ケース。ここでの首位獲得が山下さんの当面の目標だ。応援したくなるではないか。がんばれ、テキーラ!クエルボ!首位は近い。

写真は山下さんに特別にお持ちいただいた、クエルボのニューボトル。底部がより重厚なデザインになり貫禄を増している。発売が楽しみだ。

山下さんが数々のお酒のブランドと付き合ってきてクエルボに思うことは、クエルボは気分が上がる!ということ。確かにテキーラは気分が上がるし、そういう声は圧倒的に多い。先日テキーラソムリエを取得されたEXILEのUSAさんも同じ事を力説されていた。科学的には証明されていないが、経験則として明らかにテキーラは気分が上がる。このクエルボの「楽しさ」を伝えたい!というのが山下さんの願い。それはクエルボで盛り上がって屋外カウンターの上に登ってしまうような山下さんだからこそ出来ることなのであろう。ビバ・クエルボ!!!

第2回

フアン・ゴンザレスさん

テキーラ「3 Amigos」生産者

私のメキシコ滞在中に大変お世話になっているのが、こちらのファン・ゴンザレスさんだ。テキーラ「3 Amigos (NOM1499)」の生産者であり、アガヴェ栽培の農園主でもある。フアンさんはアガヴェの有機栽培にこだわり続け、テキーラでは2番目となる有機栽培認証を米国農務省とイタリアのビオアグリ双方から受けた。ちなみに1番目は「4 Copas (NOM1457)」で、フアンさんの後に「Casa Noble (NOM1137)」が続いている。

ハイランドにあるフアンさんの広大な畑は見た目から大変美しく、農薬は一切使用していない。その代わりに牧畜を行い牛をアガヴェ畑に放って自由にさせている。牛は雑草をどんどん食べてくれるので草刈りの心配もなければ、糞もいっぱいしてくれて肥料にもなる。しかもアガヴェの葉は剣のように硬くとがっているために牛はアガヴェに近付かない。牧畜の大変さをのぞけばまさに一石二鳥である。他の肥料としてはトウモロコシの芯を撒いているので、畑の土はとうもろこしだらけになっている。

このフアンさんの有機栽培がごく最近大きな注目をあびることになる。ハイランド地方にアガヴェのかび病が広がったからだ。2008年の秋に私が訪れた時は事態は深刻で、ハイランド中のあちこちでかび病で荒れはてた畑が見られた。何年もかけて育ててきたアガヴェが枯れてしまうのはあまりにも大きな打撃だ。少しでもこのかび病にかかったアガヴェは即刻処分するという。しかしフアンさんの畑では1株たりともかび病にはならなかった。ハイランドで有機栽培認証は3 Amigosだけで、役所であるCRTが連日調査に来たという。原因は農薬だった。農薬を使用すると土壌のバクテリアが死に、バクテリアがカビを食べなくなるために起こった大被害だった。フアンさんはこの事件以前から有機栽培の大事さを力説していた。

私がグアダラハラを訪れるといつもとても良くしてくれる。トラックで3時間の道のりを迎えに来ていただき、フアンさん行きつけの夢のように美味いトルティーヤを食べさせてくれるレストランでおごってもらい、ご家族に紹介していただき、テキーラについていろいろ教えてくれる。「これはビジネスになるとかならないとか、金儲けとかの話じゃない。どうしても知って欲しいんだ。」と言ったのが印象的で、有機栽培の大事さを丁寧に説明してくれた。左写真の上は一般的な畑、下はフアンさんの畑。 なぜそこまで親切にしてくれるのか?素晴らしいお人柄の他にもちょっと理由があった。フアンさんは10代から25歳位まで日本人経営の農場で働いていた。農場主は九州出身の方だったという。その頃に有機栽培の基本と大切さを叩きこまれ、生活もとても楽しかったと話す。トラックごと沢に落ちてしまい廃車にしても最後には笑って済ませてくれるような農場主だったが、もう20年以上前にお亡くなりになったという。このような先人の恩恵を私が受けて良いのかとも思うが、こうして発表することこそフアンさんが望んでいることなのかもしれない。

緑提灯運動のように国産品だけにこだわるのも良いが、地球に住んでいる以上もっとも大事なことは食の安全を世界に広げていくことだ。テキーラのような酒は、気候的にも土壌的にも伝統的にもメキシコでなければ作れない酒だから。このページのタイトル画像の3人はフアンさんの畑をきりもりするご一家。とてもいい表情をしている。今年90歳になるフアンさんのお母さんは、自分の畑でトウモロコシを栽培し、家の臼で挽いてトウモロコシの粉「マサ (トルティーヤ粉)」を作っている。香りだけ残し口で溶けて消えてしまうようなトルティーヤだった。お母さんが「毎晩1ショットの3 Amigosは欠かしたことがないわ」とフアンさんを気遣うと「毎晩1ショットにしちゃあ減りが早いな」とボトルを見る皆の笑い声がアガヴェ畑にこだまする夜。六本木の夜とはまた違うテキーラな夜だ。

第1回

フェリー・カデムさん

六本木「AGAVE」

「AGAVE」は六本木で10年以上にわたってテキーラバーを続けてきた日本で最大級のテキーラバーである。バックバーには数々のレアなテキーラがきら星のごとく並び見ているだけで心躍る。このAGAVEでマネージャーを長年続けてきたのがフェリー・カデムさんだ。フェリーさんはテキーラに非常に詳しいだけでなく、テキーラのクオリティに関して非常に鋭く正しい批評をする。10年間積み上げてきた舌と感覚のなせる技だろう。フェリーさんのテキーラの話は非常に深く、日本に入ってきた最新のテキーラも必ずチェックしておりいつも感心させられる。

フェリーさんはマルガリータの名人としても知られている。ベースのテキーラは100%アガヴェのテキーラを使用。テキーラ3、ライムジュース1、コアントロー1が黄金比率だという。マルガリータにはフルーツバリエーションが多く、欧米ではかなり一般的なのだが日本ではまだ珍しい存在だ。フェリーさんのフルーツマルガリータは世界の先端を走る人気のある一品。レギュラーメニューとして、ストロベリー、ピーチ、パイナップル、ラズベリー、バナナのマルガリータがあり、季節ごとに旬のエキストラのメニューが加わる。2009年7月時点ではスイカ、メロンがメニューにリストされていた。中でもスイカのマルガリータはフェリーさんのオリジナルで世界初ではないかという事だ。日本の夏を感じさせる一品である。

そんなフェリーさんは、イランのテヘランで育った。フェリーさんのお父様は自家蒸留を行い、炭を使ってフィルタリングするほどのマイスターだった。テヘランではお父様の蒸留酒の美味しさが大変大きな評判を呼び、毎夜友人たちが集ってきたという。イラン革命後、外で酒を呑みにくくなったことをきっかけに、レーズンやゴラーブと呼ばれる小さなリンゴを原料に蒸留を始め、クオリティを求めて2回蒸留を行っていた。そんなカデム家の伝統がAGAVEの素晴らしいテキーラセレクション、そして深い知識やこだわりにはっきりと生きている。

フェリーさんがテヘランで医大生だったころ、お兄様が日本でグラフィックデザインの仕事をしていた。ほんの1年間だけ手伝おうと来日したのをきっかけに日本に定住してしまったという。お名前のFaramarz Khademには、国境を超えるという意味があるそうだ。AGAVEのオープン当初はテキーラの魅力がなかなか理解されず、いろいろな苦労があったという。しかしもともと蒸留酒にこだわるカデム家伝統の血が騒いだか、テキーラの魅力は少しずつ理解され、外国人を中心に広まっていった。人気が上がっていくころには1晩で200杯のマルガリータを一人で振ったこともあるという。

フェリーさんの好きなテキーラを一つ挙げてもらった。「うーん、一つかぁ・・・」と悩みながらOrendain Ollitas のブランコを挙げてくれた。Orendainは70年の歴史を持つ老舗。テキーラバレーならではの香りが素晴らしいという。呑んでみると、なるほどテキーラバレーならではの芯の通った風味で、アガヴェの香りがガツンと来るローランドならではの男らしく辛い100%アガヴェのテキーラだ。Tres Mujeresなどに近い良質でドライな味、まさに10年もの間、毎日テキーラに接してきたフェリーさんならではの行きつく所の味、という印象を受けた。

AGAVEには神戸さんや景田さんらの勉強熱心で優秀なスタッフもおり、フェリーさんを中心に日本のテキーラ文化を背負って立つ存在だ。バーではスタッフにどのようなテキーラが呑みたいか気軽に相談してみるといいだろう。